「休みは稼ぎ取るもの」という思い込みは、どこから来るのか
生産性を重んじる文化では、忙しさは美徳、何もしないことは道徳的な欠点とされがちです。しかも、それが誰かの口からはっきり語られることはあまりなく、職場やSNS、さらには「疲れていること」を「価値があること」と結びつけていた、善意の親の姿などから、いつの間にか吸収されていきます。
罪悪感と休息の悪循環が、本来の目的を損なう理由
罪悪感を抱えたまま休んでも、本当の意味で回復する休息にはなりません。神経系は半分緊張したまま、その罪悪感を見張り続けているからです。つまり、働きすぎだけでなく、「うまく休めていないこと」からも疲れてしまうことがあるのです。
生産性が、自分の価値の代わりになってしまうわけ
成果ばかりが褒められ、認められる環境では、自分の価値もそれで測るようになるのは、不健康ではあっても手近な近道です。すると、なんでもない、ゆっくりした一日が、ただの静かな火曜日ではなく、自分の価値を問う審判のように感じられてしまいます。
「これで十分」を捉え直すと、実際どうなるのか
休息を、納品物の予定を入れるのと同じ真剣さで予定に入れること。時間が余ったらやる「おまけ」ではなく、です。そうすることで、ようやく休息が「ちゃんとした時間」として認められ、実際のタスクと正当性を競わなくて済むようになります。
これは、一生懸命働くことを否定する話ではありません。生産性は、そうでない時間を過ごすことの言い訳を求め始めた時点で、役に立たなくなる、というお話です。
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